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田沢湖周辺を散策していると、「潟分校⇒」の案内板が目に入った。
ふらりと立ち寄ってみると、紅葉した木々の向こうに、小さく古い校舎が建っていた。

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校舎の前には、虫の音だけが残る校庭が広がっている。
卒業していった子供たちが、とっくにこの学校のことを忘れていたとしても、ずっと子供たちを待っている学校、そんな印象を受けた。

田沢湖町立生保内(おぼない)小学校潟分校は、明治15年創立。
昭和に入り児童数が増え二学級になり、昭和26年には三学級の複式授業が行われた。(思い出の潟分校パンフレットより)



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校舎内の廊下。
壁に張り出されているのは、生保内小学校(本校)の児童の作品だとか。


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私が小学生のころの机も、たしかこんな机だった。
隣り合った二人で一つの天板を共有するのだが、机の端から定規をあてて中心を測り、
「ここまでが私の陣地やから、入ってこんといてな」と言って、定規でぎりぎりと机の中央をこすって境界線を引いた。
隣の子が嫌いな男の子だったりすると、定規ではなく彫刻等で境界線を彫ったりもした。
椅子は立ったり座ったりするたびにガタピシと音をたて、滑りが悪かった。
冬はお尻が冷えるから、母が余り毛糸で編んでくれた座布団を椅子に敷いたものだった。



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あ、ガリ版!
私が小学生のころのプリントといえば、ガリ版刷りだった。
どんな経緯だったかは忘れたが、担任の先生のガリ版刷りを手伝ったことがある。
黒くぬめぬめしたインクを、ロールでのばした(ような気がする)。
夕暮れだったような記憶があるから、何かの罰則で手伝わされていたのかもしれない。


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校舎の窓から、いつも見えた木。
新緑のころ、紅葉のころ、そして雪をまとったころ。
子供たちはさして興味を覚えなかったかもしれないが、きっと心象風景として溶け込んでいることだろう。
昭和49年3月31日、廃校となったとき、在校生は3人だったと聞いた。

今日の夕方から、米沢は雪が降り出した。
明日にかけて雪は降り続く予報である。
ふと、思う。
潟分校のストーブに大きな薬缶が乗っていて、面倒くさい幾何を解きあぐねている子供がぼんやり窓の外の雪を眺めている様子を。


私はとても羨ましい。
「この学校が母校です」と、潟分校に帰ってくることができる人たちが。
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【2009/11/02 21:49】 | エッセイ トラックバック(0) |
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